時間旅行

【 時 間 旅 行 】 中野尚彦

〈かにかくに 渋民村は 恋しかり おもいでの山 おもいでの川(啄木)〉
 山は岩手山、川は北上川であっても、風光明媚が懐かしいという話ではないでしょう。裏の藪山、田圃の小川であっても、兎追ひし山、小鮒釣りし川であれば、かにかくに恋しいのが故郷です。
 兎の山、小鮒の川、故郷の旅は個人的旧跡を巡る旅です。それに付き合いましょうという望外の申し出を頂いて、九州旅行に行きました。先生稼業、冥利に尽きます。
―風景―
〈…………モーヌはいつまでも同じ話題にかえってしまうのだった。むかし見たものの全部について、どうなったか知りたいというのだった。そのたびにイヴォンヌは、もう何もかも消え失せてしまいましたわと、くりかえさねばならなかった。……………とうとう彼女は、はっきり言ってしまおうと心に決めた。「あなたはもうあのシャトーを、二度とご覧になることはできませんのよ」…………  アラン・フルニエ「ル・グラン・モーヌ」〉
 由布院、大分川の土手の家は、出窓の下の石ころの河原に母の洗い場があって、私の遊び場でした。5才児でも簡単に摑まえることができるほどたくさんの沢蟹がいました。お腹いっぱいに抱えた卵の孵化が始まって、粟粒ほどの薄ピンクの子蟹がパラパラとこぼれ落ちたりしたものです。
 大分川の川筋は今も変わりません。しかし私の思い出す風景はそこにはありません。箒で掃くほどの蛍ももうあの川辺では見られないでしょう。
 佐賀、多布施川の白砂もなくなって水藻が繁りました。昆虫採集で私を興奮させた土手の草叢はコンクリートの壁なりました。
「あれはもうないのだよ」、そう納得する旅でしたが、それは落胆や失意ではありません。小学校の桜が切られたと聞いて、田中くんは桜の思い出を「また会えるかも知れない思い出箱」から「もう会えなくなった思い出箱」に移します(秋月りす:OL進化論)。「こっちの箱がだんだん少なくなるなぁ」と田中くんは寂しそうですが、「もう会えなくなった思い出箱」は「永久の思い出箱」です。
 この旅で私は、一つの場所の時間で隔てられた二つの風景を見ることになりました。例えば蓮華畑であるはずの場所が薔薇の花壇になっていたとしたら、「いや、ここは蓮華畑だった」と、そこに薔薇の花壇があるからなおいっそう鮮明に、一面の蓮華畑が思い出されます。それが見えるからそれがある、そうであれば、そこが薔薇の花壇があったとしても、そこは蓮華畑です。
 出発前に考えていた場所の幾つかは見残してきましたが、心残りはありません。幾つかの薔薇の花壇を訪ねれば、すべての蓮華畑を見ることができます。思い出とはそこに残してきたものではない、そこから持ち出したものだと知りました。
 熊本では「煩悩」という言葉を軽く日常会話で使います。ネコを可愛がる人がいると、「ネコさんにぼんのうかけはりますなぁ」という具合です。「人は暗くなる前に家に帰るものだ」という言葉があって、私は大分川を思っていたのですが、この旅でそのぼんのうが落ちました。「人は一番長い旅の旅支度に身軽になる」という言葉あったように思います。

―思い出す人―
〈所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。  鴨長明「方丈記」〉
 薔薇の花壇を見て蓮華畑の思い出を持ち帰る、景色についてそうですが、人についてもまた同じです。この場所に立って、あの人の消息はもう絶えたのだと知る、そしてかつての人の思い出を持ち帰る、時間の旅は持ち出したものを確かめる旅でした。
 由布院の地で思い出す人は、1年生の生活圏、1kmに満たない範囲にみな収まります。熊本にはまだご挨拶すべき人もいますが、それが出来なくなった人もいます。私のようにここを離れた人の方が多いのかも知れません。神崎町を通って水ケ江町から佐賀市内に入りました。佐賀城堀の内、南堀端、紡績通、堀江通、神野町、鍋島村、佐賀駅周辺、唐人町、場所ごとに次々と思い出される人がいるものです。
 此処其処についてのあれこれと誰彼についてのあれこれの、書き留めようにもきりがないほどの思い出を持ち帰る旅でした。
 人も街もみな移ろう。川さえも変わります。山はさすがに変わりません。由布岳は昔のままでした。それと私が3年生から通った佐賀大学付属小学校の校庭の楠、あれは不思議です。あの木が昔私が見たあの木だとすれば、樹齢は百年に達します。しかし、楠の若木を何本もあの配置のままに植え替えるとは考えられません。楠は佐賀の県木で、「くすのおおきのいきいきと、、、」というのが校歌です。佐賀城は堀を護りとする平城で、遠ざかると楠に隠れて見えなくなるから、「葉隠城」あるいは「沈み城」と言います。

― 会う人―
 九州で熊本の姉と長崎の義妹に会いました。私の姉、姉、弟とそのつれあいのうち、存命なのはこの二人だけです。そろそろ会っておこうかと思ったりもするが、お別れに行くという状況でもない、きっかけがなければ会わないままだったかもしれません。 
 義妹が佐賀の宿を手配してくれました。義妹は熊本の人で長崎の特別支援学校の教員ですから、佐賀は通過地点ですが、弟に連れ回されたことがあって、多布施川とか付属小の楠とかを良く知っていました。3才から小学校卒業まで佐賀で暮らした弟は、私よりもっと佐賀を懐かしんだのかも知れません。
 小学校から大学まで佐賀生活が長かった姉は、今でも佐賀に行く機会があるようです。最近はJRを使うと聞いていましたが、車で来たので驚きました。
身内は久しぶりに会っても、およその近況はわかっているし、話は他愛ないものです。でも、ひょっとしたらこれが最後かも知れない、という思いはあります。私が姉と清算のすんでいないものがあって、あれをどうしようと言うと、もういいよと言うから、香典から引いておいてと言ったら、私の香典につけるのでしょうと言って、8才下の義妹は大笑いしています。
 姉は私より4才上ですが、女は平均寿命が6才ぐらい長い。喘息やらなにやらいろいろある人ですが、まだ100号のキャンパスを運べる軽自動車などと言っている。次に私と姉が会うときは、私があちら側にいそうな気がします。会っておいて良かったと思いました。
 佐賀を発つとき、義妹に宿の手配のお礼を言ったら「また来てください」と言って「これは言っておかなくちゃあ」と付け加えました。
 姉は私を久留米に運び、熊本に戻ってから、車で昼食と夕食につれていってくれました。姉は震災の後、片づけもしないままの一人暮らしで、私はホテルを使いました。明日空港に送ろうかと言いますが、空港行きのバスはホテルの前から出ます。姉には心残りのないようにという思いもあるでしょうが、まだもう少し心を残しておきました。

― 別れる人―
 熊本高校の図書館のカウンターの後ろに、大きな火鉢のある小さな「図書係室」があって、私は授業以外のほとんどの時間をここで過ごしました。久留米の人はこの図書館の司書で、この小さな部屋にたむろする30人ほどの生徒達の引率役を務めた人です。私より8才上で、私達は「先生」ですが、少し上の学年は「さん」づけで呼びます。
 私は本を書くとき、先生に読んでもらうのを楽しみしていましたが、もう読んではもらえないかも知れないということは伝え聞いていました。
 一度お会いしようと思いながら果たせぬまま、Ⅰ巻を送りましたが返事は頂けませんでした。3年後、Ⅱ巻を持って行きました。
 先生は短期記憶を失くされていましたが、その才気に変りなく、昔に戻って昔のように会話が弾みました。また熊本に帰ってきますか、と何度も聞かれました。
 先生の机の上の本立てにⅠ巻がありました。Ⅱ巻を並べて置きましたが、「先生、言葉はあの図書館で育てられました」そう言える時はもう失われていました。
 また来ようと思いました。同じ思い出を繰り返し何度でも楽しむことができる、そうしたいと思いながら10年が経ちました。
 ………小柄な人ですが、集会室の椅子で顔を伏せてまどろんでいる風な先生はとても小さく見えました。声をかけると顔を上げてにっこりされました。お顔の色つやも良くお元気そうで、時間が昔に戻ります。またしばらく顔を伏せられてから、小さな声で「いろいろありましたねぇ」と言われました。先生の記憶がどこにあるのか、そこに私はいるのか、わかりません。すべてのことが一つに思われるのかも知れません。
 そんな風にして時間が過ぎて行きました。もう一度お会いできた、もう一度お会いするのは難しい、お別れを思いながら、「先生、また来ます」と言って立ち上がりました。すると、身を起こした先生の顔にいっぱいの笑顔が浮かびました。何かを見抜いて可笑しくて、優しく鋭い寸評をされる時の先生の表情です。忘れることのない笑顔でした。「なかのくん、行きますか、もう来られませんね、さようなら」、先生の声が聞こえるような気がします。
 故郷の時間旅行は一番長い旅の旅支度の旅でした。

―思い出す人付記:15才の少年兵―
 私には16歳離れた姉がいました。私の両親の郷里は新潟ですが、結婚した時遠縁の女学生を東京で預かってそのまま養女にしたという人です。
 この姉は昭和23年、結核で亡くなりました。当時多数の若い人が結核で亡くなりました。日本人の死因第1位だった結核を終焉させたのは抗生物質ストレプトマイシンですが、食糧難で栄養の悪かった時代の病でしょうから、この姉が我が家で一番戦争の記憶に繋がる人かもしれません。
 姉の死は母の痛恨事ですから、私が小児結核の診断を受けた時、ストレプトマイシンはもうあったのですが、母の用心はたいへんなものでした。学校に行くも行かぬも自由だった私は、半年間気儘に学校を休んで暢気に暮らし、5年生は翌年にやり直すことに決めました。今でも人生の最大の転機だったと思うこの機会を、私は亡くなった姉にもらったのかもしれません。
 父の仕事を手伝っていたこの姉が会社から戻ってきて、窓辺から洗い場にいる母に「戦争が終わったよ」と言ったのを覚えています。大分川の土手の家でのことです。
 この家で私は日本の兵隊さんに会いました。日出生台基地があるのに、なぜだかわかりませんが、兵隊さんが由布院の民家に1泊か2泊、分宿していきました。我が家に来た二人の兵隊さんは別れ際の玄関で私に鉄砲を持たせてくれました。母か姉が、重いでしょ、と言って笑いましたが、大人の持つ物だから重いのは当たり前だと思っていました。
 それより兵隊さんに食事を出した姉が、まだ子供よ、と台所で母に言ったのを覚えています。姉が21才、私が5才、兵隊さんは15才だったかもしれません。
いろいろな記憶をつき合わせて数えてみると、あれは昭和20年の春のことです。彼らは知覧に行ったのでしょうか。沖縄の海に行ったのでしょうか。数か月後の終戦をどのように迎えたのでしょうか。戦争を語れる最後の世代、15才の少年兵になれたのでしょうか。二人ともいがぐり頭の丸顔でにこにこした人だったように思います。

―時間旅行付記:後から来る戦争―
 15才、戦争を語れる最後の世代、と書きましたが、なかにし礼という人は私より1才上、終戦の時6才ですが、僕は戦争経験者だから……と言います。
 満洲の引き揚げ列車で機銃掃射を受け、目の前の人の頭を弾丸が貫通し、たくさんの死体と血の中を逃げまどい、死体を列車から投げ捨てた、決して記憶を過去のものとすることのできない戦争体験者です。
 由布院は今でこそ観光地ですが、戦争末期に父の会社がここに疎開工場を作ろうとした寒村です。由布院駅が機銃掃射を受けて、防空壕を掘っていた人が死んだと、小さい姉たちが騒いでいたことがあります。爆撃機の護衛機が別府方面からの帰路に面白半分に撃つのだと大人たちが話していました。積んであったドラム缶が炎上し、土手の上から黒い煙の柱が見えました。
 日本軍の飛行機が一機、煙を吹きながら山腹に落ちて行くのを窓から見たことがあります。土手の家の窓から見える山々は、春には野焼きで赤く染まります。その山肌に落ちていきました。戦場ではないのだから、何かの事故でしょう。翌日山腹に一筋の煙が見えました。昨日の飛行機の人の荼毘の煙だそうです。当時由布院の荼毘は野焼きでした。
 疎開地で私が見た戦争はそれだけです。
 戦争が終わって進駐軍が来ました。終戦の日小さい姉たちは、女は髪を短く切ってみんな山に隠れるのだ、などと話していましたが、「鬼畜米英」は陽気にジープの上からチューインガムを撒いていきました。あれはいけません、と母は言いました。食べ物を投げ与える、拾ってはならない、子ども心にそうだと思いましたが、拾ってでも食べるという考え方もあったと思います。
 芋、粉、カボチャ、野草や田んぼのドジョウやタニシまで、食べられるものは何でも食べましたが、母は私達にひもじい思いはさせませんでした。
 小学校の友達にひもじさをこらえている子がいました。ひもじいから盗み食いをする。お父さんは戦死して、満洲から引き揚げてきて、3人の子を育てるお母さんは罰に食事を抜く。だからいっそうひもじい。食べ物の罰はいけません、私の母はそう言って嘆くのですが、でも空腹をどうするのか、子どもにはわかりません。弟をかばって我慢を重ねた6年生のお姉さんは夜盲症になりました。
 投げられても食べ物だ、拾ってでも食べるべきだ、それが正しい時代だったと思います。
 私は戦闘も殺戮も見ていません。空腹の辛さを経験したわけではありません。私のように安全な場所に居た者は、戦争が終わってから映像で戦争を知りました。
 小学生だった姉たちは教科書の軍国主義的部分を墨で塗りつぶし、翌年、私達新1年生から新しい教科書で民主主義教育が始まりました。
 視聴覚教育というのがあって、先生の引率で映画を見に行きました。戦争の映像をたくさん見ました。焼け爛れた子ども達を先生が川中に座らせ、力尽きた子どもが一人また一人と輪の中から抜けて流れていく、その映像を子ども達みんなで見ました。映画「ひろしま」だと思います。広島、長崎、沖縄、いずれも後から作製された映像ですが紛れもない戦争の現実です。
 米軍が艦上から撮影した沖縄の記録映像を見たのは中学3年のときです。弾幕の中に突っ込んだ特攻機が海に落ちて行きました。艦砲射撃の先、海岸線の奥に「ひめゆりの塔」の悲劇があることを知っていました。摩文仁の崖から白装束の女性が次々に落ちていきました。
 この映画の感想文についてホームルームのとき先生が不機嫌でしたが、何がいけないと言うのかさっぱりわかりません。するとひとりの女の子が立ち上がりました。すらりと背の高い長い髪の子です。成績の良い大人びた子ですが、おとなしい子です。私の父は戦死しました、と前置きして、到底語り得ないという意味のことを静かに話し始めましたが、涙で言葉が止まりました。教室中が沈黙し、先生はその子に座るように言って終わりにしました。
 語り得ないものは心に刻まれる。戦争に解釈や感想はない。絶対悪だ、あの頃子ども達はみなそうだと知っていたと思います。
 戦災孤児の映画も見ましたが、東京大空襲の大虐殺のありさまは後で知りました。勇しい話として聞いていた特攻隊は終戦とともに不条理の明るみにおかれました。南方戦線の玉砕やジャングルでの餓死についても同様です。その後満洲引き揚げの凄まじさを知りました。もっとずっと後に、日本によるアジアの国々の同じ苦しみを知ることになりました。
 明日に向かうだけでなく昨日に戻る、それが戦後に育つということでした。子どもだけではないおとなもまた、忘れることのない記憶を持って明日を見ていたのだと思います。日本国憲法は中学の社会科で習いました。その言葉はあの業火から生まれた不死鳥であったと思います。

―由布院付記:地図と記憶―

 NHKの朝ドラのタイトルに使われた由布院俯瞰図です。
 右端の白い星印のあたりが由布院駅で、私の家の窓から駅はすぐそこに見えていました。正面由布岳の左端の山陰から列車が現れて、私の家を中心にぐるりと半円を描いて右下端の山陰に消えていく、記憶に良く一致します。
 しかし中央にあるオムライスみたいな小山には驚きました。由布盆地の真ん中に住んでいて、盆地を囲む山裾をぐるりと見渡していると思っていたから、こんなものがあるとは知りませんでした。
 記憶と地図の間には空白があって、なかなかにぴったりとは埋まらないものです。たった一度出会った少女を探して地図と記憶をたよりに彷徨う、冒頭引用したモーヌの冒険はそういう物語ですが、私の場合、Googleマップが素晴らしく役に立ちました。九州旅行の前後、私は時が経つのを忘れて、記憶と地図の間を彷徨いました。

 地図の右よりの黄色い線で囲んだ部分、俯瞰図の☆印周辺が1年生だった私の行動範囲です。私は「大分川(青線)の土手の家(赤〇)」で終戦を迎え、「田圃の中の一軒家(赤△)」から由布院駅(黒□)を通って由布院小学校(黒×)に通いました。直線にして600mほどの通学距離です。
 黄線の外に出れば、遠征です。大きい子にくっついてカブトムシ採りに「日出生台」に行った(a)。家族で金鱗湖に行った(b)。金鱗湖は水辺に旅館か料理屋のようなものが1軒だけあったように思います。土手の家の窓から、川向うの露天風呂が見えていて、小さい姉達と行った(c)。橋を渡って坂を登って行くと(d)、知り合いの家があって、その先に小学校の先生の家があって、この道は一人で行くことができた。そういうふうに記憶を地図に嵌め込んでみるのですが、もう地図に嵌め込むこともできない記憶もたくさんありました。
 大分川の川縁は遊歩道になっていて土手の家は二つの橋の間の何処か、一軒家の周りは住宅地になっていて踏切から降りて来たこの道のこの辺り、という以上には特定できませんでした。
 大分川にかかる橋と鉄橋(白×)は記憶を固定する確かな手掛かりでした。鉄橋の風景は昔のままでした。橋を挟んだ二つの旅館が残っていました。「山水館」の大分川に接する敷地の端が村の子ども達の水浴び場でしたが、「山水館」は少し移動していました。同級生のオサムくんの「いよとみ旅館」の位置は変わっていませんでした。
 小学校の校庭と校舎の位置、校庭沿いの日出生台方向に向かう緩やかな坂は昔のままですが、駅周辺はいろいろ建て込んで、目印の火の見櫓もなくなって、土手の家から駅に降りる道はとうとうみつかりませんでした。
 結核療養所にいる姉を見舞うためだったでしょうか、母に連れられて別府行きの汽車に乗るために早朝線路を歩いて駅に向かう。すると機関車がこちらを向いて止まっている。私はこの記憶をずっと不思議に思っていました。別府は東、由布岳の向こう、地図の右上方向にあるはずなのに汽車は由布岳に背を向けて走り出すのです。
 グーグルマップを拡大してみて、この記憶も地図にぴったり納まりました。国鉄久大本線の別府行き列車は、西の久留米・日田方面(1)から由布盆地に入ってきて、ぐるりと回って南(2)から出て行く、その後東進して大分湾に突き当たり、湾岸を北上して別府に至ります。
 鉄路が遠回りなせいでしょう、山越えをして別府に行くバスに乗った記憶があります。崖っぷちの狭い道を、デッキから身を乗り出した車掌が車輪をのぞき込んで「オーライ、オーライ」と声をかけてそろりそろりと進んだのを憶えています。俯瞰図、由布岳の右端の鞍部、城島高原を通り、鶴見岳の南を捲く道だったでしょう。今はこの道で別府まで40分ほどで行けるようですが、高速道路なら由布岳の左端(西側)から北を回って25分ほどです。
 由布は盆地だ、そのことは良く知っていました。ぐるりと見渡せば山で、屏風で囲まれたようなものだと思っていましたが、そうではなく由布は分厚い山並みの中の小さな窪みです。そしてその小さな窪みさえ、1年生にはなかなか大きな世界だったようです。
 オムライスの丘は知りませんでした。盆地を取り囲む山々と重なって区別がつかなかったのでしょう。大きい子にくっついてカブトムシ取りに行って木苺を摘んだ、これがあの日出生台だ、テレビでこの映像を見た時、幾つかの記憶の断片が重なって、とっさにそう思いましたが違いました。縮尺が違います。この小山では軍の演習場や飛行場になりません。日出生台は由布岳の北西に広がる高地で、今でも富士、北海道に並ぶ自衛隊の大規模演習場があるそうです。
 カブトムシの日出生台はその入り口で、1年生の足がどこまで伸びたかはわかりませんが、小学校の脇から由布岳に向けて歩く、それが正しい記憶で、オムライスの丘は1年生の足には遠過ぎます。どうでもいいことですが、日出生台について書いたことがあるので、記憶と地図の錯誤を訂正しておきます。
 昔、写真は写真館で撮るものでした。私の家には私が3才、富山にいた頃の家族写真が1枚残っています。終戦から二、三年すると学校で撮った学校行事の焼増し写真が残るようになり、家庭カメラのスナップ写真があたり前になるのは私の中学時代からです。そういうわけで、由布院時代の写真は1枚もありません。
私は終戦を挟んで3才から7才まで由布院にいました。70年以上経ってから、記憶と地図の間を彷徨って、今とあの時を繋ぐ時間旅行をしました。
もし由布院時代の写真が少しでもあったなら、私の記憶はその写真の中で完結し、記憶と地図の間を彷徨ったりしなかったと思います。
 私の小さな世界さえがそうであるように、この時代は僅かな記録と膨大な記憶の時代です。到底語り得ないけれどどうしても語り継がねばならない記憶、その記憶を持つ人々が生きた時代だったと思います。

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