ゆうちゃんの空間作図

 

結び:ゆうちゃん空間の作図
 ベビージム空間について、ゆうちゃんが持っている情報に沿って幾何学作図すれば、人は見ずともその空間構造を知ることができる。

(作図は誰にでもできることですから、やってみるまでもないのですが、やってみました。無用の作業だと言われる方もいると思います。無用の作業ですから、ゆうちゃんの空間認知】まで飛ばしてお読み頂いて結構です。)

【ゆうちゃん情報】
 身体感覚として、ゆうちゃんは、少なくとも以下の情報を確定しているものと考えねばならない。
  ・お尻、右足膝、右足先、右手の位置
   →A,B,C,D。
  ・それぞれの位置間の距離
   →AB=b,BC=c, AD=a。
  ・台頂上面の水平性とその一辺d1, d2及び、斜面の勾配α。

【作図】
 ゆうっちゃん情報に従ってXYZ三次元座標のXY座標上に以下の作図を行う。
 (→,←はそれぞれ、X,Y,Z座標の正方向、負方向を示す。)
「点Bにおいて水平線と頂角αをなす線分AB(AB= b、A←B)を引く。」
「Bから垂線をおろし(←)、BC=cとなる点Cをとる。」 
「Cを通る水平線を引き、これと線分ABの延長が交わる点をEとする。」
「BAの延長上(←)にAD=aとなる点Dをとり、Dから垂線をおろし、ECの延長との交点をFとする。」
「Dから水平線(←)を引き、D D1=d1となる点D1をとる。」
「D1から垂線(←)をおろし、これと線分EFの延長との交点をF1とする。」 
「DからZ軸方向(→)にD D2=d2となる点D2をとる。」
「D2を通りDD1に平行な直線と、D1を通りD D2に平行な直線を引き、その交点をD3とする。」
「D2を通りDEに平行な直線と、Eを通りD D2に平行な直線を引き、その交点をE1とする。」

【以上までの出来上がり図】

  *(おそらくd1=d2 即ち台の上面は正方形であろうと思われるが、それについてのゆうちゃん情報は得られていないので
     d1,d2,とする。

【全体像】
 四辺形DD1F1F には、Z軸の負方向(←)に伸びるもう一つの斜面が接続する。ゆうちゃんはこれについても同様の探索を行い、同様の情報を得ている、あるいは得るであろうから、YZ座標面上に同様の作図を行うことができる。
 Z軸の正方向(→)、Y 軸の負方向(←)には斜面ではなく階段が伸びるが、ゆうちゃんが必要な情報を収集すれば、それぞれYZ座標面、XY座標面上に作図することができる。そして、ゆうちゃんは必要な「階段情報」を収集する。それは見える者が見ればわかるように、触ればわかる、というものだと思う。

【ゆうちゃんの空間認知】
 「ゆうちゃん情報」に従って作図するということは、ゆうちゃんの空間認知をシミュレーションすることだ。それによってベビージムの全体像を描き出すことができるということは、ゆうちゃんの空間認知が、すべての人に共通な空間認知であるということだ。
 ゆうちゃん自身は作図しない。それは誰も同じだ。空間は宇宙の法則だから、人は宇宙からもらったものによって、個の体験事実として空間を認識する。幾何学のような知識は人が人から受け継ぐ人の世の法則だ。人の知識は現象の切り取りであって現象全体ではない(障碍児心理学ものがたりⅡ,第1章第7節 現象と知識)。作図はゆうちゃんの体験空間に付された符号に過ぎない。だから、ゆうちゃん情報による作図がゆうちゃんの認知する空間を超えることはないが、ゆうちゃんは作図以上の情報をたくさん持っている。
 例えば、私は作図にゆうちゃんの左足情報を使わなかったが、必要なかったからだ。お尻(A)、右足膝(B)、あるいは右手(D)のうち二つの位置情報があれば勾配はわかる。左足情報は重複情報だ。
 しかしながら画像の左足は、見れば見るほど、無用の情報源であるとは思えない。姿勢からいって、左足は踵を斜面に乗せてつま先は上方に浮いていて自然だと思える。しかしこのつま先は強い意図をもって斜面を抑えている。これはいったいなにか。
 人は何かに言葉という鍵をつけて確定し、自己の知識の系に収める。ゆうちゃんのこの左足先は、勾配に関わるすべての情報をゆうちゃんの知識の系に組み込む鍵であろうと思う。ちなみに、左手はこの左足先の先導によって「不確定域」に向かう。
 そういうわけで、私はあかちゃんのhand regard のまなざしに魅せられるように、この一コマの映像の中のこの左足先に魅せらる。
【見えない空間】
  反響音による障害物感覚については、村中先生の実験(同Ⅱ,pp.116-117)の被験者で体験して知っていたが、それでもUターンのさとちゃんやT字路のかっちゃんのような小さな子ども達が日常ごく自然にそれを使うのを目撃すれば(同Ⅰ,pp.155-157)、ただ感嘆というしかない。未知のものを知識によって知ることはできる。しかしそこに生きる個の体験事実は知識に収まるものではない。
 「友だちは皆、私が鬼になると、そのへんの壁に寄りかかって黙っている。だがよく聞いていると壁のほうから小さな息遣いがするので、すばやくそこに行き着く。すると、友だちは勢いよく壁を蹴って、その場を逃げ出してしまうのだ。見えないのだから逃げれば見つからないという計算なのだろうが、私のほうは足音が聞こえるのですぐに逃げていることがわかる。『逃げるなんてずるいじゃない』と言うと、子どもたちは意地悪く『逃げてないよ』と言うのだった。『かくれんぼう』はいちばん嫌いな遊びだった。(同Ⅱ,pp.180-181)」」4才で失明した随筆家三宮麻由子のこども時代の思い出である。
 無知は未知を無として閉じる(同Ⅱ,p.48-49)。見えなければわからない、子どもの考えだからこそ、人の思考の系譜に根ざすものと考えねばならない。
 私は壁歩きのやっちゃんの靴に触ろうとして頭をはたかれて驚いた(同Ⅱ,p179)。かがんで手を伸ばしたから頭の位置はわからないと思ったのだから、私の知恵はかくれんぼで意地悪する子ども達と同じだ。無知は人の思考の出発点かもしれない。
 やっちゃんが塀を飛び越えた時は仰天した(同Ⅱ,p.327)。しかし考えてみれば、見えないから塀の向こうの世界はない、やっちゃんがそういう空間に生きているはずはない。塀があればその向こうがある。車の通る音だってする。やっちゃんが塀の向こうの情報を集めていないわけはない。
 見えないものを知っていることを不思議に思う、そのことが不思議なのだ。後になってそう学ぶ機会もあった(同Ⅱ,pp.179-180)。それでもやっちゃんの壁歩きの意味を知ったのはまたずっと後のことである(同Ⅱ,p.328-333)。
 空間は開いている。閉じた空間はない。誰もがそうであるように、やっちゃんは開いた空間の中にいる。だからやっちゃんは空間の続きを調べる。そういうことだったのだと思う。
 「さえずりも、空気の匂いも、風の味も、両手に伝わってくる空の感触も、それまでは一つひとつの情報でしかなかった。それがこの朝、空のはずれにたたずむ私のなかで、一つの景色として形となったのだった。そして、さえずりの向こうには、わからないうちに私の命を育んでくれた生命の連鎖が、まるでパノラマのように果てしなく広がっているのだった。そこには、自然の気があった。(同Ⅰ,p.80)」三宮麻由子は「五感が劇的な合体を遂げるという経験」についてそのように書く。
 知識としての空間よりはるかに豊かな個の体験事実としての空間、それは果たして体験者だけのものであろうか。
【空間共有】
 手を見つめるあかちゃんの写真(rink本文)に見惚れていると、手を見るあかちゃんではなく、あかちゃんが見ている手を見るような気分になる。
これはなんだ
「それはきみの手だ」
「ぼくはこれを見る。これはここにある。しかし、ぼくはこれを知っている。ここにあると知っている。ここにあると知っているこれを見てこれがここにあると知る、それはどういうことだ。」
「それは、運動-感覚協応いうものだ。」
「それにしても、これは確かになにものかであるに違いない。いったいなんだ。」
「それはきみの世界征服の剣だ。天からもらった勇者の剣だ。」

 ゆうちゃんの左のつま先も同じだ。見つめれば、ここに集まってくるベビージム空間の情報が見えてくる。
「斜面だ。面は広がる。」
「どこまで」
「上は右手が知っている。」
「下は」
「右足つま先が床面を捉えている。面は広がる。」
「すると」
「面は出会う。そこが斜面の終わりだ。」
「そうだ。確かにそうだ。」
 作図は無用のものだ、個の体験事実としての空間を知識としての空間に置き換えてみてもなにかが出てくるわけではないのだから。そう思っていた。しかしそういうわけでもない。
 ゆうちゃん情報を辿って作図すると、ゆうちゃんの体験している空間を自分もまた体験することになる。それは触覚空間の疑似体験というようなものではない。触覚であろうと視覚であろうと、ゆうちゃんの体験している空間がゆうちゃんの空間だ。そしてそれは私の知っている空間だ。
 空間は一つしかない。ゆうっちゃんと私は同じ空間の共有者だ。お互いの未知を伝え合う者としてではなく、既知を語り合う者として対話する、それが私とゆうちゃんの左足つま先との対話なのだと思う。
 三宮麻由子は果てしなく広がる空間について、他者が想像できないものを語ったわけではない。三宮のことばは読む人の心に「果てしなく広がる空間」を思い起こさせる。
 人は人と関わる。ときには選んで異なる人と関わる。なぜか。それぞれの違いを超えて、同じ宇宙の共有者であることを知り、共有を語り合うためではないか。異なる人と語り合うことができれば、宇宙はそれだけ広がる。

【付記】
 「部屋中の床を段差の低い幅の広い数段の階段で覆って、寝転がったり這ったり、人を追ったり玩具で遊んだり、こどもたちそれぞれの活動の展開を見ながら付く、そんなふうにできたら楽しいかと思う」、視覚障害乳幼児に関わる仕事を後になって振り返って、そう思ったことがある(同Ⅱ,p.163)。
 神奈川県の盲学校の先生でトライアスロンをやるという人がいた。小柄な女性にはちょっと想像できない特技だが、群馬にはパジェロミニを駆って何度か現われた。
 この人の学校を訪れることがあって、幼稚部の先生達に「ゆるやかな階段の部屋」の話をしてみた。笑顔で聞いてもらえたが、実行には遠い、私自身もそう思う。
 ゆうちゃんのベビージムを見て、あっ、これだ、部屋中の階段でなくてもこれでいいのだ、と嬉しくなったが、考えるべきこともある。
 「教材」について、この子どもがこうできるものが欲しいと思う場合と、何かを見て、これならあの子どもがこうできそうだと思う場合があるが、いずれにせよ、着想と実行の間に懸隔があってうまくいかないのは、子どもを見る目が足りないからだ。
 ベビージムを見て、あの頃はこういうものはなかった、というのは言い訳だ。「チャンスは準備のできている人に訪れる。」子どもを見る目があるからこれがここにある、そういうことだと思う。

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眼球運動    GNU
障碍児心理学ものがたり-小さな秩序系の記録-Ⅱ pp. 第1章第5節 眼球運動」よ
  (文抄録略)

 

 

 

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αとβの系譜   ABK
同Ⅱ pp. 第1章第5節 ロレンツのバクテリア/ボール探し/」より
  (文抄録略)



人の世の法則   HYH
「育児日記が語る赤ちゃん心理学Ⅱ pp. 補注5 人の世の法則」
   文抄録略

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白杖使用法   HKS
☆ ゆうちゃんの映像を見ていると、私は針穴のAさんの映像を思い出す。
「中途失明者の歩行訓練に白杖の使い方というプログラムがある。適切な距離と幅に白杖を撞いて踏み出す足の足許の安全を確保する。
 もしそういう訓練を経ないで自分で白杖を使って歩こうとすればどうするか。学校に行かないでずっと家庭で暮らしてきた盲聾の人がいて、16ミリの映像記録とともに研究会で報告された。針の目処に糸を通す場面があってみな驚いたから、「針穴のAさん」としておく。
 二人暮らしのお母さんと触的な方法で細やかな会話があるらしい。家庭で裁縫の頼まれ仕事をして暮らしているのだが、先生たちの尽力で盲学校に来ることになった。それで校門から玄関まで自力で歩く場面があって、目処通し以上に驚嘆した。
 両足をぐっと踏ん張って上体を深く倒し握り込んだ白杖をいっぱいに伸ばして前方の地面を叩く。右から左、左から右へと扇形にがんがんがんがん叩きながら一歩一歩前進する。なるほどこうするものか。自分の考えで確保した自分の安全だ。これほど確かなものはない。
 人々によって研究され整えられて伝達される白杖使用法とは別に、その人の個の体験として生まれ出る白杖使用法というものがあるらしい。(障碍児心理学ものがたりⅠ,第4章第1節 針穴のAさん)より抄録」
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点字読字法  TNS
 白杖について、訓練を受けた使用法と個の体験としての使用法の二種が見つかる。白杖に限らない。同様のことはいろいろある。
 「同僚の田中哲二さんは大学生の時の失明だと聞いている。会議の時点字の資料を読みながら報告するのを隣に座って見ていた。人差し指が行の上を滑るように進む。私の黙読より早いかどうかはわからないが、私の音読よりは遙かに早い。ずっと後になって読書好きの盲学校の生徒さんが本を読むのを見た。指の使い方が全然違う。指1本の細かい動きもそうだが、真ん中3本はもちろん小指までが先の文字に触れている。点字には少なくとも2種の読字法があって、どちらが優れているとも言えないものらしい。(同Ⅰ,第4章 同)より抄録
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ことば」と「言葉」  KAK
 聾者の家庭で聾に生まれ手話を母語として育った妻と、聴者の家庭に聾で生まれ口話を教えられて育ち、長じて手話に出会った夫と、その間に聴者として生まれた赤ん坊と、三人の異なる言語使用者の間に生まれるコミュニケーションを語るために、夫、齋藤陽道は「ことば」と「言葉」を分けて記す。
 針穴のAさんについても、同様に考えねばならない。
 「針穴のAさんは学校に行く機会がなく、言葉を学ばなかったが家族と細やかに会話する。その報告書を書いた井上早苗さんから話を聞く機会があった。これからこの人に点字やあるいはその種の言葉をどう教えるか考えねばならない、下手に教えようとすれば外国語を教えるようなことになる、そう言われた。(同Ⅱ,第1章第1節 そしてもう一人)より抄録」
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仕草の系譜  SGK
「たえちゃんが小学部の5年生の時、私は盲学校で放課後算数の補習を手伝ったことがある。勉強が終わってお母さんが迎えに来る。たえちゃんは椅子から立ち上がって、さようなら、と言って頭をこくんと下げた。その時私はたえちゃんの横、机の脇にたっていたのだが、お母さんが片手でたえちゃんの頭を掴まえると、ほら、ちゃんと先生の方を向いて、と言って、私の方にぐるっと回した。たえちゃんはもう一度さよならを言って頭をこくんと頷いた。
 話をするとき相手の方に顔を向けなさいという指導が盲学校にあると聞いている。同僚だった田中先生は必ずこちらにきちんと向き合って話される。それで私は先生が見えないということを忘れて机のうえに黙って書類を置いてくるという失敗をしたことがある。
 …………………………中略………………………… 
ブラウスのまみさんは新しいブラウスを先生に見てもらおうと思って、ブラウスの肩口を摘んでちょっとしなを作ってみせた。針穴のAさんは学校に行ったことのない盲聾の人で、自分の縫い上げたワンピースを肩口に当てて、同じようにしなを作って見せた。こういう動作は見て真似なくても人の空間行動の系譜の中に現れるものらしい。
 こくんと頷いた動作は自然で可愛かった。たえちゃんは見えないのだから、私の方に顔は向けなくても不自然ではない。たえちゃんの気持ちはこっちを向いていて、勿論私に伝わっていた。
 見えないから、できるだけ見える人と同じにする、それがそのまま正しいと言うのなら、それは見えない者を差別するということだと思う。見える者も見えない者もみな同じ系譜の中にあって、それぞれの違いも共通性もある。違って見えるものが同じだと知って共有する。共生とはそういうことだと思う。(同Ⅱ,第2章第2節 仕草の系譜)より抄録」    

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